プレス情報

2014-08-press

1952年1月10日生まれ、足利高校、北海道大学医学部卒業、 順天堂大学麻酔科学教室にて研修後、慶応大学整形外科教室入局。都立大久保病院、川崎市立川崎病院、伊勢慶応病院、 富士重工健保組合総合太田病院、国立埼玉病院、足利赤十字病院を経て、平成元年10月16日「わたなべ整形外科」開業。平成3年「医療法人もみの木会 わたなべ整形外科」と組織変更。趣味:テニスとスカッシュ、クラシック・ジャズ・ボサノバ・シャンソンなど音楽鑑賞。また開業以来続けている院内クラシックコンサートは今年6月、第80回目を迎えた。

「最後まで看てもらうよ、命を預けるからよろしくね」と、渡辺さんの手を握る80代の患者さんがいる。わたなべ整形外科に通う渡辺さんの熱烈なファンは多い。渡辺さんはなぜそれほどまでに患者さんを魅了するのだろうか。

人気の秘密

アイスホッケー部に所属した大学時代、パートナー校の藤女子大にファンクラブができるほど人気があった。スポーツで鍛えた胸囲は125cm。ニックネームは金太郎。医学部ではもちろん異色の存在であった。太田の看護学校で教鞭をとった2年間、その熱い授業が評判で、学生による授業投票では常に1位だった。現在でも、その人気は衰えることがない。その率直で打ち解けた、正直で包み隠しのない診療スタイルは、今なお、老若男女問わず多くのファンを増やし続けている。近づきやすい気さくな物腰と若々しい笑顔が印象的だ。

現在わたなべ整形外科がある、まさにこの敷地で、渡辺さんは生まれた。

かつて同じ場所で父は繊維業を営んでいた。4人兄弟の次男であった渡辺さんは、決して医師になることを幼い頃から夢見ていたわけではなかった。中学時代は、当時、県大会9年連続優勝という驚異的な記録を作り上げた花形のハンドボール部の一員であった。高校では、弱小ハンドボール部を県大会優勝に導くほどのリーダーシップを発揮。そんなスポーツ一色の青春時代を過ごした渡辺さんに、医師を志すに至ったきっかけを尋ねると、驚くべき答えが返ってきた。なんと入試直前、3学期の三者面談の前日まで志望校を決めておらず、進路相談を無事に終えるために「医学部」と答えたのがきっかけだったのだ。先生や両親は、それまで部活に専念していた彼をよく知っているだけに、当然反対や不安の声を漏らした。しかしまさに有言実行、ハンドボールで培ったその集中力の高さを発揮し、無事に医学部へ合格を果たしたのだった。そして今の渡辺さんを形作る転機がその大学時代に訪れることになる。

フレンドリーな診療スタイルを形成したもの

高校時代はスポーツ一辺倒で、一度も喫茶店に入ったことが無いほどの硬派で真面目。相当量の勉強を求められる医学部でも息つく暇はないはずだった。しかし渡辺さんは大学2年の夏、バックパック一つで、3ヶ月間のヨーロッパ旅行を決行した。これが大きな転機だった。ヨーロッパ生活も1カ月を過ぎる頃には英語で寝言を言うようになり、3か月目には英語で喧嘩ができるまでになり、次第に周りに様々な国の若者が集まり始め、夜通し議論をするほどになった。「それまでは田舎のシャイな学生だったけど、旅行中何か吹っ切れて、国籍、年齢、性別を問わず、人の目をまっすぐに見て話ができるようになったんだ。」と渡辺さん自身は謙遜しておられたが、このとき培ったフランクでフレンドリーな振る舞い方が現在の診療スタイルにつながっているのだろう。

渡辺さんのまっすぐな性格は、整形外科を選んだ理由にも表れている。お茶の水の順天堂大学病院での麻酔科研修中、渡辺さんは、数多くのガン患者と接してきた。そして、がんの告知がまだ一般的ではなかった当時、ガン患者にガンであるとは言えない医師の辛さを身にしみて感じた。嘘をつくことなく仕事をしたい、そう思ってたどり着いたのが、ガン患者が少ない整形外科だったのだ。

名物院長の地域貢献

わたなべ整形外科は、毎週土曜日、院長の古巣である慶応大学病院から内科や整形外科など、学会でシンポジストとして活躍するレベルの医師を招聘している。自院の医療水準を慶応病院レベルに維持することが、まず第一の地域貢献と渡辺さんは考える。

また、2階のボヌールビューティーメディックも渡辺さんの理念から誕生した。脱毛はそもそも厚生労働省の公式見解では医療行為と定められている。医療機関で行う脱毛であれば、より安心で確実な施術が提供できる、そうして始まったのがこのボヌールだった。

ミッドタウンのクリニックなら2万円はする両ワキ脱毛が、ここなら5千円。同じレーザーマシンを使用しているので当然同じ効果が期待できる。この良心的な経営姿勢がお客さまからの好評の理由の一つであり、渡辺流の地域貢献なのだ。

渡辺さんが常日頃から口癖にしている言葉がある。

「我々の組織と様々な形で関係を持った(コミットした)すべての人達が、みんな幸せになることを常に目指して精進したい。」

足利がもっともっと元気になり、ハッピーをみんなで分かち合えるよう、多少でも貢献できれば本望です。と語る渡辺さんの思いは、すでに足利の医療と足利の女性の元気の源となっている。